忘却のヨーロッパ
- Tak Yama
- 2024年8月28日
- 読了時間: 3分
更新日:2025年11月26日
読者であればご存じの通り、私が最近全く記事を書いていないのには特にこれといった理由はない。ただ単に書くような出来事がないだけである。しかし、それは本当に書くようなことがないのだろうか。いや、きっと違う。ただ単に、出来事を特別なものとしてをうけとめ、そしてそれを自分の観念とつなぎ合わせて考えるその感性が鈍化しているのだ。
というのも、私は記事を書かなくなってから、一度ホストファミリーを変え、スウェーデンに行き、どこぞの日本人大学生と会い、また共同編集者であるところの稲荷とも面を突き付けている。そのほかにもまあ「普通」の留学生としてコペンハーゲンに生きているからして様々な出来事を体験しているわけだ。では、なぜ私は記事を書かなくなったのか、についてを自責と謝罪を込めて分析していこうと思う。
まず第一に考えられることとしては、忙しくて書く、もしくは書きたい事象について考えるような余裕がなかったということがあるだろう。まあ実をいうと自らの趣味を楽しむ時間も、何もせずに物思いにふける時間も十分にあったような気がするので、これはただの勘違い、さらに言うなら責任転嫁になってしまう。
もしくは言った通り、感性が鈍化しているということになるほかないのだが、どんな感性が、なぜ、どんな風に鈍化しうるのだろうか。私が思うに、どうやら私のこれは原因を一つに割り切ることは出来ないようである。
一番大きなものとしては、一つの出来事について考える集中力の低下があるだろうが、これは暇な時間が多いときによく起こり得る、ブルーライトに被爆したことによる眼、脳の疲労によるものであり、この記事を書いている間もそれと必死に戦っているものであるから、ほかの時間帯をどうにかして増やしていきたいところである。
しかし、この記事の題を見てくれてもわかる通り、私が言いたいのはそれではない。私の言いたいのは「忘却」と済まされることである。
私はここにきてすでに7か月が経過しようとしている。11か月もこうしてみると真に刹那だと思うが、されど7か月は長期間である。この時間で私の体は、脳は、自然とこの空気を普通のものとしてとらえるようになりつつある。それにより、細々とした(たとえほかの人からしたらそうでなくても)ことは、自然と割り切った忘却してしまうわけである。
これを防止するのは非常に難しい。それこそ、感じたことをすべていちいち走り書きし、頭でもう一度シミュレーションするくらいの手間なのである。環境を変えればよくわかるが、通常人間の環境適応能力は素晴らしい。それは己に余分なストレスや刺激を与えないための自己防衛システムなのだろうが、より多くの刺激を受けて成長しようとする身には逆効果として働いてしまう。
また、脳は必要ないと思うことを割り切る性質もある。これは慣れだけではなく、今までの経験やそういうもので事足りるからと新たな価値観を拒否しかねない、もっと単純に言うならば老害反応というわけだ。私は半年ぽっちでデンマークに適応したとは思っていないが、脳はすでに知ったか老害への道をたどっているような気がする。
先述の記事と似通ってしまうが、自分が「少し」学んだことですべて知った気になり、そのうえ脳が割り切ってしまえばそれは日常生活と何ら変わり映えしない、留学とは何なのかというお粗末な未来が待っていそうだ。
一度忘却するともう一度考える、というのはなかなかに不可能だ。そろそろ、フレッシュさを取り戻したいと思うこの頃である。




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