怠惰なことへの抵抗
- Tak Yama
- 2024年4月15日
- 読了時間: 4分
怠惰とは、七つの罪源が一つであり、一般的にはだらしなさであったりなまけものであることを表すときに使われる。私たちが受け持つタスクを後回しにしたとき、せっかくの休日を何もせず終えてしまったり、そういう「怠惰」を過ごした後は、少なからず罪悪感があったり、「明日はもう少し活動的になろう」などと考えるのである(それが実現するのかどうかについては言及を控えるべきだろう)。
ここからは全く根拠など存在しない私のアイデアになる。私が考える怠惰とは、それすなわち変化をしないことだ。いったいなんのこっちゃと思っただろうか。よくわからないならば逆の「活動的な人間像」を考えてほしい。新しいことにチャレンジし、尻込みなどをしない像が思い浮かぶ。その逆すなわち「怠惰な人間像」は、新しいことにチャレンジしないでためらってばかりという像になることがわかるだろう。新しいことにチャレンジするのには、ある程度の決意や、場合によっては先行投資も必要になるだろうし、もちろん失敗するのも目に見えていることだろう。ただし、それらにためらってばかりの生活には凄みも重みもないだろうし、真面目な部分の私から見たら楽しくもないように見える。そんな人生は、七つの罪源に数えてもいいくらい悪しき状態といえるのではないだろうか。
一方で、私が思う怠惰な状態も、まったくもって悪なのだろうか。もちろん私は総合的に見て悪だと考えているのだが、じゃあよい観点が無いのかと言われれば、無いことはないのではないだろうか。一つは題にもある「習慣」である。コロコロと環境を変え、新しいことに手を出すような人間は、何も身につかない、三日坊主な人間といわれて仕方ない。ただし、これは私が言いたい「怠惰でない」とは少し異なっている。むしろ、三日坊主は深く集中することから逃げているものであるから、むしろ挑戦に対して怠惰であると私は考える。怠惰な状態を習慣にするのはもちろん愚の骨頂だろうが、何か勉強であったり運動であったり経験を習慣として持つことは、実は新たな学びや新たな出会いにつながるものでもあるし、それを継続できている御仁をどうして怠惰と罵ることができようか。
もう一つは、休息である、ということだ。少し心身を休めるために、楽な風にするということは、何も悪いことではない。それをせずにぶっ倒れるようなことになるよりも、休息と挑戦でメリハリをつけた生活を送ることは、公私があいまいになってきている現代の私たちにおいてはむしろ良いことであるのではなかろうか。何より日本語的な「怠惰」に焦点を当てると、実は「怠ける(なまける)」よりも、「怠る・惰る(おこたる)」のほうが感覚として正しいのだ。つまり、これに沿うと、 「(新たな挑戦のために)休息を取ることをおこたる」=「怠惰である」
ともとらえられる。都合のいい解釈にとられるだろうが、実はWikipediaの「怠惰」のページには「キリスト教では休息日(日曜日)に休息をおこたる事こそ怠惰である」というような記述がある。確からしい出典は確認できなかったが、もしかすると私の意見も原義に逸れていないかもしれないということだけ添えておこう。
では、怠惰でないようにあるためにはどうするのがよいのか。怠惰の対義語としては勤勉が言われるが、キリスト教で言う主に対しての勤勉とは、キリスト教徒でない私たちからしたら関心ないものかもしれない。なので、ここでは勤勉から一度離れて考えてみたい。
挑戦に対して積極的になるには、まず知識や自信が必要になるのではないだろうか。それは高慢ではなくあくまで謙虚にある必要があるかもしれないが、知識と自信をもっていれば、新たなことに対しても尻込みせずに向かっていけるのではないだろうか。
さて、このままいくと「勉強と努力を怠らずに頑張ろう!」という明白なべき論で終着してしまいそうなので、一つ面白い考えを紹介して終わりたい。それは、
「怠惰を求めて勤勉に行きつく」だ。
これは、楽な方法を模索する最中に努力しているのが実は勤勉な行動になっている、ということだ。例えば働くのが嫌だから投資で稼ごうとすると、さまざまな知識も必要であるし、世の中の動向を絶えず監視している必要がある。それこそ勤勉であるのではないか、というものだ。
怠惰でありたい人間は少数派だろう。ただ、楽をしたいのもまた事実であるし、それ以上に気づけば怠けているのもまた人間らしい。ただし、自分がどうやってもうひと頑張りできるのか。休息を取ってから働くのか、楽するために働くのか、はたまた理想を追い求めて絶えず努力できる人間なのか。「べき論」から派生して、パーソナライズされた「聖書」を持つことは、現代を生きる上で少しの力を与えてくれるのかもしれない。




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