自主性の履き違え|言い訳に使われる言葉たち
- Tak Yama
- 2024年9月17日
- 読了時間: 3分
最近始めた個人でのブログの方で、「自主性の履き違え|叱らない教育は子供を救うのか」という記事を投稿した。これはどちらかというと親目線、オトナ目線の記事に仕上げたつもりなので、こちらでは子供目線の記事に仕上げようと思う。
私たちが過ごしてきた社会は子供の自主性を重んじ、叱らない・否定しない教育をされてきたと思う。叱られた記憶がある人も大多数だと思うが、人間の脳は生存のためストレスを感じた、嫌だった記憶を優先して残す性質があるだけで、叱られないというのは相対的な話である。もしくは、叱られた時に逃げる場所が多くあったように思う。いつでも友達と繋がり、話せる時代だ。娯楽もあふれているし、叱られたことに対して逃避もさほど難しくない。
しかし、それは裏を返せば成長を放棄することに直結するように私は思う。
もしあなたの周りに本当にろくでもない大人しかいないというのであれば、その自主性と多様性の身勝手によって身を守るのは何も否定しない。が、少なくともこの記事を読んでいる(可能性のある)皆々様方は、親のお金、親の提案、親の与えてくれた機会によって、その留学生活ないし学校生活を送れている方々が大半であろうから、その親をろくでもないとほざこうものなら一切の支援を跳ね返すほどのことである。また、たかが十数年、二十年足らずの経験で周りの大人たちをろくでもないと言い切るのは早計というほかない。
それを踏まえたうえでは、彼らが叱る、指導する内容は、ほぼ明確に彼らが見てきた悪い方向・もしくは彼らが実際に犯してしまった失敗につながるものであるからだという推測ができる。それからいとも簡単にインターネットや娯楽に逃げてしまえば、その教訓は一切身につかない。そのまま大人になってもある程度立派な大人として生きていけるのも現代の社会かもしれないが、その「自主性」で撥ね退けた部分はまさに先人が見てきた/してきた失敗の二の舞になること請け合い。
これは個人ブログの言葉の繰り返しになるのだが、自主性とは私たちがする行動すべてを社会が認めないのは悪、ということではないし、むしろそういう身勝手があることによって本来の自主性が守られないルールや禁止事項というものが誕生するものだ。教育者が叱る内容というのは、その自主性を守るためであったり、私たち自身をそういう自主性のある人間に育てるためのある意味必要なモラル的制約である場合が多い。
また、親の受け売りではあるが、私たちが自立していくにつれて、私たちをそうやって叱ってくれる人間というものは減っていく。じゃあどうなるのかというと、徐々に私たちから距離を遠ざけていくのだ。
私たちは逃げたり反論したりが非常に簡単な社会に生きてはいるが、それをして大きなだけの子供のような大人になったとき、そこから成長するのは今よりもっと難しい。ほとんど手遅れである。そうはならないように、少しは叱られた時に普通に苦しんで、どうにかして改善しようと考えることが必要なのだと思うし、間違っても自主性、多様性という言葉で逃げることがあってはならない。
……それでも理不尽に感じたり反抗したくなるのは成長過程において非常に重要な要素であるのもまた事実。そういう時は、正々堂々と行動や結果で大人たちを見返してやるというようなスタンスを持っていられればどれほどよいだろうか。




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