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「楽しいなら万々歳」ならそれでいいじゃないか

  • 執筆者の写真: Tak Yama
    Tak Yama
  • 2024年5月3日
  • 読了時間: 5分

豊かさを知り尽くした現代のスネ夫達


「地方私立学校」のコンパニオン

 私が日本で通っている学校は、言うなれば「お嬢様学校」である。といっても私の家庭はごく普通の中流であるし、そういう家庭のお子さんもいないわけではない。じゃあなぜ通わせてもらえているのかといえば、この学校が「地方私立学校」だからである。


 私が通う学校は、われらが地方都市内で上位の私立学校である。上位というのは、学力然り、学費然り、設備然り、である。つまり、何か野望を持つ子供、良い環境で集中して勉強したい子供、親が裕福な子供が一様に集まっているわけである。そのため、よくある「難関進学コース」と「それ以外(これを無為に扱っているわけではない。便宜上である)」が存在する。

 一つ目はよくある進学校のような、大学受験にフォーカスを当てて勉学に励む子供たちを育成する学校だ。ここには私たちのような中流だが上のレベルを目指して集まった、「志高い子供」もしくは親が教育(学歴)熱心な方々が多い。つまり、家庭の層は幅広く上から中ごろまで、学へのやる気は高めな若人が集まっている。(このような勉強にフォーカスが当たってばかりのいわゆるガリ勉に関しては、別記事『常識知らず』にて私の考えを少し書いている。簡単に言うと勉強しすぎ、というものだ。)

 そしてもう一つ、今回私が注目したいのは、それ以外の部分だ。ここは、地方都市のお医者様の跡取りや会社の重役の御子息や大農家の御曹司やらがあふれる、社交の場に近い匂いを放つのだ。

 「あそこは子供同士の友情を介して将来のコネクションを作ったりもできる場所になっている」といつか保護者が言っていたのを私は聞いていた。言うなれば社交パーティーをスローモーションで行う場所である。地方だから会社同士の距離も近く、元来関係のある方々もいるだろうが、それを次世代も身をもって自覚していくとなれば、地方での運営は安泰なものになる。そして学校はそれでさらに多くの社交人が我先にとわが子を入学させようとするのだから、看板にも箔が付き、経済面でも潤う。よい共存関係というわけだ。


負け犬の遠吠え

 だがしかし、これが教育においてはどうだろう。私の言う教育とは学問ではなく、先生が口頭で伝えたり学年という集団で学ぶその社会性のものである。先生方はお金持ちのお客様に強く当たれないがために彼らはどんどんわがまま且つ校則など目に入らなくなる。彼らのユニバースは一国家となり、邪魔するのは先生や真面目君たちだけだ。彼らは早くから英才教育をされてきていたとして、その社交、まあ表のコミュ力は持ち合わせている。しかしそれは「裕福な我々」の仲間意識をより強固なものにし、若干の排斥的な理論を形成する。実際彼らは表でいじめ、という話より、難関進学コースを下に、というか汚いような印象で見る。そう見えるのも仕方ない。もともと持つものである彼らと同じ空間に、平民が泥臭く這い上がってきたような奴らがさも自分たちより優秀な顔をして居座るのだ。彼らにとってただの腫物であり、目立っているのが余計に苛立たしい。

 実際、これは私が見たものだが、難関コースの列とそれ以外の群衆がすれ違う時、彼らは去り際に鼻をつまんでいた。私の色眼鏡であればよいのだが、「特進臭」といっていればさすがに勘違いでないと思う。私は周りの目が気になってしまう性分なので、いまだに根に持っている、というか彼らを避けてしまう。幸い私は部活などで縦横ともに若干のつながりがあるのでその周辺から「特進忌避」をされることは減っていったが、それでも時折感じてしまうのだ。


 少し私の恨み節で脱線してしまった。要するにその「僕ちゃん達」は、大袈裟に言うならば「私たち至上主義」なのだ。そして、こんな十数のガキがいうことではないが、保護者も彼らをお金持ちの子供として育てるがあまり、彼らの中には「周りとの確たる差」というものが生まれる。自分が持ってるもの、自分が経験した体験が一番で、中流階級の私たちよりもすごいのだ。実際私のストレス発散も兼ねて下品な言い方をするが、パパの金で買ったドイツ製のペンやら、値段で買ったようにしか思えないイギリス製のヘッドホンやら、何やらお得意様に優先的に紹介されるお財布などを持ち歩き、無くしてもまた買ってもらうような風に自分の雑さ自慢をし、パパとママと行った海外の話をさも一人で行ったかのように話すのである。そして高校生になれば自分で物を買ったりお友達とちょっといいレストランに行ったりしてインプ稼ぎに勤しむのだ。楽しい人生である。


勝負と行こうじゃないか

 私のようにいちいち質だの自己流だのと言って哲学とこだわりの話をする人間からすると妬み半分憐み半分なのだが、理性的に言うならそれで楽しいならそれでいいと思うのだ。ただ、私はそうやって育った人間に重要な仕事をなんとなく任せたくないし、ずっと英才教育の人間に厚みを感じるだろうか。

 けだし彼らは賢く教養もあるのに、それを全く活かさずに見えてしまうのが私にはギャップがより下品に見せている。しかし、現代にそんなこと言うのは少数派で、豊かさの基準がとっくに「心の豊かさ」から「見た目の豊かさ」に移ってしまった。それを理解した彼らなのであればすさまじい適応能力だろうが、私はそう見ることができないのだ。色眼鏡とはそういうものである。彼らは「足るを知らない」のではなく、「足りている」のだろうか。大人になったとき、子を持つようになった時、彼らの豊かさは変わらないのだろうか。私としては精神的な豊かさに目を向ける人が増えていればしてやったりである。

 
 
 

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